上滝志摩守盛貞 (うわたき しまのかみ もりさだ)

【戦国武将 / 戦国時代】


本領は藤津郡(嬉野市塩田町)五町田(ごちょうだ)村とされる。貞は有馬義貞(よしさだ)からの偏諱か。のちに盛員(もりかず)と称す。嬉野市・鹿島市の属する藤津郡は戦国時代中期頃、長崎県の大名・有馬氏が支配しており、上滝志摩守もその家臣であったが、天正四年(一五七六)東肥前を制した龍造寺隆信の大軍が攻め寄せ、鹿島市の横造城(よこぞうじょう)で有馬方・龍造寺方の大合戦となった。結果、龍造寺軍が勝利し、これ以降上滝氏も龍造寺氏に帰参、本領を安堵され、松岡城(現・鹿島市の松岡神社周辺)の守備を任じられる。以後、鍋島信房率いる「藤津衆」の一員として、犬塚、嬉野、原、辻、久間、永田、吉田、各氏地元の武士と共に、龍造寺軍団の一翼を担う。『歴代鎮西志』下巻P.199200によると、上滝志摩守は、犬塚弾正(だんじょう)・大村弾正・百武志摩守と共に藤津郡の「両弾二島(りょうだんにとう)」、また「四人の槍柱」として、抜群の武勇を讃えられ、嬉野や藤津郡の要となる武将となった。しかしこの内、大村弾正に謀反の疑惑が浮上したため、龍造寺隆信は近隣に居住していた上滝志摩守と百武志摩守へ、大村弾正の暗殺を命じた。天正七年十二月大晦日の夜、年末の挨拶と称して上滝は、まず大村の五町田の館へ向かった。弾正は暗殺の危険を察知しており、玄関を閉ざして無人を装う。しかし上滝は、玄関を打ち破って中に押し入り、たちまち大村弾正を闇討ちした。大村の家来たちが数多く打ち掛ってきたが、遅れて百武志摩守が駆けつけ、二人で大村の家人を多く斬り倒し、夜が明けて二人は生還し、大村弾正の首級を龍造寺隆信へ献じた。隆信は働きを賞し、感状(または加増)を与えたという。

天正八年(一五八〇)の時点で、『隆信公幕下着到』によって上滝は百町(約一千石)の領主となっている。上滝姓の読み方がうわたき氏の他、じょうたき、わたき、はたき、など様々伝わっており、今回は佐賀県内に居られるというご子孫に倣い、うわたき氏とした。

 

→★ 『歴代鎮西志』原文で「隆信密かに上滝百武、二の志摩に命じて大村を(はか)らしむ」とある。定義に照らせば、歳末の挨拶を口実に、標的の館に入り込み、速やかに暗殺の密命を遂げる業は、忍の技ではないだろうか。


判定結果( ✖ ✖ )

判定理由:上滝志摩守を忍者と認定すると日本の武将全員が忍者になってしまう