本光坊 良眞 (ほんこうぼう りょうしん)

【修験行者・山伏 / 鎌倉時代】


山城国出身。鎌倉時代、藤津郡に到来し、唐泉山(とうせんざん)に棲む大蛇を呪殺。住民から感謝される。八天狗社を整備し初代宮司となり、その後の八天神社隆盛の元を作った伝説的人物。

 

「(唐泉山の)山中巨蛇ありて横行す、故に運歩(うんぽ)の跡久敷(ひさしく)絶え、(中略)当時此山を超過するものは唯飛鳥(とぶとり)而已(のみ)なり。鳥坂(とりさか)鳥越(とりごえ)、蛇谷等の(あざ)、此の山脈にあるは、則ち是に起因する地名なりと云う。貞応二年(一二二三)良眞(山城の国山崎の人)と申す修験行者此の地に来り、其の大蛇を呪殺す。夫より蛇難断絶、万民快く登山するを得るに至る。然して良眞本社を再興す。大高寺を廃して坊舎を建つ、之を本光坊と号す。又更に下の宮を坊舎の境外に創立して老幼の参拝を安からしむ。」 『祐徳稲荷神社史 乾』(続編鹿島誌)より

 

「貞応元年、山城国山崎の産、田村良真(田村麻呂の苗裔(びょうえい)にして修験妙力の行者)小城郡晴気(はるけ)庄に下向しありしが、霊瑞を見て来り、本社を中興し下宮を鎮祭して老幼婦女子の参詣を易からしむ。以来其の子孫、本光坊と称し、代々上下両宮の宮司として奉仕すること六百数十年に及べり。」 『八天神社略記』より

 

■『火伏(ひぶせ)と八天狗』(小林剛三氏・『日本の石仏No.79』平成八年)では、「『山口十二所権現(ならびに)八天狗神鎮座縁起』を読むと、(中略)良眞は山城国の出身でもあり愛宕山(あたごやま)の影響が考えられる。(中略)北九州の修験にも明らかに愛宕山の影響がみられ、唐泉山の八天狗も、愛宕山の八天狗が勧請されたものと考える」とある。

 

→★忍者のルーツ、且つ一形態ともいえる山伏。大蛇を呪殺して見せた本光坊良眞の験術(げんじゅつ)はつまり、忍者の秘術ではないか。


判定結果( ✖ △ )

判定理由:忍者の定義としては南北朝時代から、鎌倉時代には忍者は存在しない