八天無双流 (はってんむそうりゅう)

【棒術・捕手術・柔術 / 江戸時代】


「八天無双流 何時の頃よりか当神社神伝といわれる武術が伝承せられ八天無双流と(たた)へられます。小城・佐賀方面には主として柔術、平戸方面には主として棒術が(さかん)に修業せられ、上宮へ七日あるいは二十一日の断食参籠(さんろう)をして修行する人々も多かったと云われ、尚神慮に叶った人は神山中何方(いづかた)とも知れぬ(たちばな)の園に導かれ橘の実を食することができたと

伝えられます。」 『八天神社略記』より

 

「『八天舞相流』は八天無双流とも書くが、八天とは豊前彦山系の修験道に信仰される『八天狗』に由来しているということである。まえにも触れたが、山伏が法具の一つとして常持した()()(づえ)(しゃく)(じょう))の威力が棒術としてまとまったものである。相手(狂暴者)を殺傷してよければ槍が有効であったが、捕縛が目的であるなら、棒術の伝統がものをいうことから、はやくから度衆杖の用法は警固番の棒術(杖術)に転化していた。肥前の各地に残っている八天社(八天さん)は、天下を闊歩した山伏の拠点だったことを付記しておく。

小城領の周辺要所に配置された警固役人は、八天信仰を加味したこの棒縄術によって任務の職責を果たしたということであろう。」 『肥前武道物語』黒木俊弘著P.225より

 

→★『蓮池藩日誌』中、蓮池藩が八天無双流を公式武術として採用した記録はないので、嬉野を中心としたローカル武術だったのではないか。現在この流派は佐賀県内で断絶したと見られており、今回の調査活動で伊与久(いよく)松凬(まつかぜ)(武術家。信濃国・真田家に使えた侍で、忍者である「伊与久」氏の末裔)が偶然、八天無双流継承者で福岡の実業家・南里氏(故人)から、いくつかの(かた)を継承していた事が分かった。貴重な嬉野市の歴史文化として失われぬよう、この機を通じ市内での継承が願われる。

 

 

→★ここまでの全ての内容から、山伏の術・武術・忍術の不可分性が見えて来る。包括的に八天無双流も、嬉野にいた忍者が嗜んだ武術と考えられないだろうか。


判定結果( △ △ )

判定理由:忍者と関わりのある武術の可能性はあるが証拠不足、今後も調査を継続。