古賀 源太夫 (こが げんだゆう) 【蓮池藩士 / 江戸時代末期】


幕末期蓮池藩の下級武士と見られ、政治や軍事に関わったような記述は無く、人物の詳細は定かではない。蓮池藩の『明治三年(一八七〇)庚午(こうご)十月惣着到(そうちゃくとう)』中、古賀姓は数名有っても、源太夫の名は無い。ただし見逃せない事に、外国船が長崎に来航した時に、二度、源太夫が特に情報探索を命じられ、長崎へ派遣されている。この時だけ「古賀源太夫」の名が登場する。彼が行っているのは『蓮池藩日誌』中、後述する田原安右衛門の「細作」(忍)の仕事と同じである。以下に原文を紹介する。

 

安政三年(一八五六 「(八月)七日長崎港に英吉利(イギリス)船来航す。(鍋島直與(なおとも))公(その)事情探索として古賀源太夫を派遣す。」『蓮池藩日誌』P.513 藩主・直與の代。

 

嘉永六年(一八五三)「(八月八日)外国船来航に依り成富謙兵衛・古賀源太夫を出崎せしめ事情を探索せしむ。」 『蓮池藩日誌』 P.569 藩主・(なお)(ただ)の代。

 

安政三年(一八五六)「(八月)六日長崎港に英吉利(イギリス)船三隻来航す。即ち平士・堤文左衛門、手明鑓(てあきやり)・陣内卯一郎及び足軽拾五名を半関船に増出せしむ。古賀源太夫を長崎に派遣し外船来航の事情を探索せしむ。」(同上 P.583(なお)(ただ)の代。上記の安政三年と同じ事柄。

 

 

→★ 忍者は下級武士がその役を担う事が多いとされるので、幕末の動乱期、古賀源太夫は藩の密命を受け、忍者として活動したのではないだろうか。


判定結果( 〇 〇 )

判定理由:幕府や他藩でも幕末期に忍者が外国船の情報収集に当たっていたことから