田原 安右衛門 良重(たばる あんうえもん よししげ)

【蓮池藩士。身分は第三等「侍」/ 細作 / 江戸時代前期】


生年:寛永十八年(一六四一)、没年:正徳元年(一七一一)七十一歳。 

初代・塩田役所頭人(とうにん)。鉄砲足軽組頭(くみがしら) 。知行六十石。経歴から文武に秀でた人物であった事が判る。

 

先行研究では蓮池藩田原家の初代・安右衛門とされてきたが、新出史料『田原系図』(八谷茂樹氏より提供。八谷氏は母方が蓮池藩田原氏)が発見され、諸史料および、佐賀市蓮池の宗眼寺の境外にある田原家累代墓所の碑銘とも比較し、内容が一致する事から、二代目である事が判明。 諱(いみな)も良重と判明した。また、先祖(田原伊勢守尚明やその親族)が山伏だった事も、新たな発見である。また『蓮の葉可久禮』については三代目良眞が完成させている。 

 

名字は、「たばる」氏と読む。仮名(けみょう)は、翻刻されていない原典の『請役所(うけやくしょ)日記』を約六〇年分精査した結果、「安左衛門は一箇所もなく、安右衛門ばかりである。因みに塩田町光桂寺文書にも田原安右衛門として数箇所散見する。」とあり、小田寛次郎氏の功績によって正しくは「右」、「安右衛門」である事が既に判明しているが、今回新出の『田原系図』で代々みな「安右衛門」と明記されている事でも、裏付けられる。田原安左衛門ではなく、田原安右衛門が正しい。 

 

父方の七島氏は、今山の戦いや多久城攻めで手柄を挙げた、小城郡の七島市之允(いちのじょう)の一族と思われる。系図上、七島宗真、七島良祐と来て突如、良昌が田原姓に変わる。おそらく良昌は初め本藩に属し七島安右衛門を名乗っていたが、蓮池藩創設時、鍋島勝茂の命により蓮池藩属となり、藩主直澄が蓮池城へ移り住んだ時期に、何か事情があって母方の田原姓へ改姓したと考えられる。 

 

「寛文七年(中略)、是の年島原城主高力左近罪有り。国除かる。島原騒擾す。(鍋島直澄)公 田原安“左”衛門をして細作(さいさく)となし島原に遣り、以て其動静を探らしむ。安左衛門は才学有り。官塩田頭人に至り、嘗「蓮葉隠」(はすのはがくれ)一部を著し後世に伝う。」 『蓮池藩日誌』P.18 

 

→★「細作」と指摘されている。島原藩主高力氏の改易騒動の動静を探る任務に当たった。

つまり二代目の田原安右衛門良重は、二十七歳の時、忍の任務を務めていた。  


判定結果( 〇 〇 )

判定理由:蓮池藩日誌に細作(忍者)だったとはっきり書かれていることから