<先行研究>
(1)『丸目蔵人佐徹斎藤原長惠傳』宮崎十念 著(十二世宗家・小田夕可の弟子、手書き本)
(2)『肥前武道物語』黒木俊弘 著(元佐賀大学教授)佐賀新聞社 発行 昭和五十一年
肥後人吉生まれの剣聖・丸目蔵人(生:一五四〇、没:一六二九)が、新陰流を基として新たに創始し九州一円に広まった剣術、タイ捨流。(1)の研究によれば、丸目家が所有する巻物中、タイ捨流の免許が与えられた名簿の中に以下の記載がある。
彦山八天狗 弁慶夢想
藤津郡吉田村 武次与三兵衛尉
慶安四年(一六五一)
まずは、弁慶夢想は八天狗(=八天神社)に深い関りを持ち、山伏をイメージさせる弁慶の名乗りで、嬉野町吉田の武次与三兵衛尉へ、タイ捨流を伝えた事が分かる。
宮崎十念氏の研究によると、この弁慶夢想は、伝林坊頼慶(でんりんぼう らいけい)と比定されている。伝林坊頼慶は、タイ捨流の開祖・丸目蔵人の高弟で、生没年は不詳。丸目家蔵の文書中、「直伝免許之衆」また「直伝十人衆」の一人。肥後相良藩に属し活躍した。山伏であるため諸国を巡回したという。
「◎伝林坊頼慶 片岡タイ捨二代目、中国の武術家、兵学者、医術家、造船家。長崎に於て小田六右衛門(夕可)に破れ、徹斎(丸目蔵人)之門人となり、徹斎晩年迠原野に於て代稽古、及忍法指導の総帥也。又、水軍の指導、有瀬外記を助■、(芦北町)計石に残る中国ジャク式のうたせ船など此也。徹斎死後六年目(一六三五)、永田儀左衛門盛昌に印可を渡す。岩屋山之修験者と也。全国を巡回し、全国の修験者及び山窩一族の支柱となり、忍者軍団の組織を確立し、指揮系統の樹立を残し(中略)晩年之記録、有瀬外記と共に無之。」(1)P.72~73
「(丸目)蔵人佐死後、高弟・伝林坊頼慶が、直伝者のいた肥前をば巡国し、修験者としてタイ捨流の弘流を見て、彦山八天狗弁慶夢想として捕縄術、忍術、馬術、弓術、槍術等も相伝したものと思われる。肥前に残る伝書の絵が中国系の伝林坊頼慶の絵の系統であると思われる。(中略)肥前でもっとも弘流したタイ捨流であったから、伝林坊頼慶も師(丸目)蔵人佐にかわり力をいれて相伝をたしかめたと思う。」(1)P.95~97
つづいて、黒木氏による(2)の研究、
「修験の山伏が、中世末から武道流派成立に寄与したことは、かくれもない事実」P.20
「山伏の世界では験術(念力)とともに武術に長ずることが、その存在価値の尺度にもなった。山伏の優越は験術によって決まり、到達したい境地は、飛翔も自在な『天狗』という偶像であったから、なかには自らを○○天狗と誇称して民衆を威圧したりした。」P.16
「伝林坊頼慶の生涯も雲をつかむようなものである。相当の年月、(唐津市相知町の)鵜殿の岩窟に逗留したであろうことは、この間に見なれた「岩屋山」を名乗っている事からでも想像つくが、あとのことは杳としてわかっていない。片岡タイ捨流は京畿で幕末まで つづいたといわれるが、その道統系譜はつぎのようになっている。
丸目蔵人-岩屋山伝林坊頼慶-永田儀左衛門是正-樅木伊左衛門定治
-溝口十左衛門常賢-赤坂長太永治-片岡源之丞喜正 ・・・
すなわち江戸時代の中期に、片岡喜正によって再興されたタイ捨流の流祖に準ずるものとして、伝林坊の名を残すだけである。」P.17
→★黒木氏は明確な根拠が無いまま、岩屋山を厳木の岩屋と想像しているが、嬉野市から非常に遠い一方、嬉野市の八天狗社・唐泉山の近隣、鹿島市の浄土山には「岩屋山」がある。古くから修験道の霊場で岩窟も有り、さらに系譜上、伝林坊が剣術を伝えた永田氏、これは藤津の郷士の姓と考えられる。以上から、伝林坊が嬉野にいて剣術を教えた場合、その名に冠した「岩屋山」は東松浦郡相知の鵜殿の岩窟の方ではなく、藤津郡の岩屋山と考えるべきであろう。「岩屋山伝林坊頼慶」と「彦山八天狗 弁慶夢想」、ともに藤津郡にいた山伏で、且つタイ捨流を伝授できる希少な立場となると、やはり同一人物だったという可能性が高い。
→★今回の調査活動の中で『タイ捨流忍之内極意秘密之巻(写)』という、門外秘文書が存在している事が分かった。前掲のタイ捨流十二世宗家・小田夕可氏が原典から書写したもので、タイ捨流の中に具体的な忍術修行が含まれていた事が判明した。元禄二年三月付の伝林坊の記名も含まれ、つまり伝林坊頼慶が嬉野で、剣術、武術とともに、忍術を伝えた可能性が否定できない。
少なくとも、流派の中で特異的な存在であった伝林坊頼慶また弁慶夢想は、嬉野にいた忍者とも言えるのではないか。
判定理由:嬉野市出身の者ではないが嬉野市とゆかりのある忍者ということで認定、伝書に忍術的要素が濃厚な記述があることから
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