佐賀県嬉野市の忍者の歴史

~佐賀藩の忍者~

 

嬉野市の地域は長崎から佐賀へ抜ける主要な街道が通まさに戦国時代における東西肥前の「境目」です。嬉野・塩田の覇権を得て、はじめて肥前統一の展望が開けるのですそのため、西の有馬氏東の龍造寺氏、二つの大勢力が、嬉野市の領有を巡って激しく争いました。

翻って嬉野市内では、八天狗社に集う山伏集団や、上滝氏、嬉野氏、久間氏、吉田氏、永田氏らの小領主が乱立し、周囲の大領主に翻弄される柳のような状況にありました。そんな中で領主達は生き残るために確実に忍びを活用したと思われます。さらに古くから温泉があり、唐泉山を擁する修験道の聖地であり、経済拠点の塩田津もあるから佐賀県内でもとりわけ「人・物・情報が集まりやすい土地柄でしたつまり歴史的に見ても、嬉野は忍者が活動していた可能性が高いのです。ただしそれらは名も無き人々によって支えられるのが常のため、表立って歴史に記録が残る事はありませんでした。

 

江戸時代に入ると、嬉野市は佐賀藩の支藩である蓮池藩の領地となります。蓮池藩の本城は佐賀市蓮池町に置かれますが、その経済は主に塩田が支えていたとされ、蓮池藩のみならず佐賀本藩にとっても最重要地域の一つでした長崎街道を通り、江戸から長崎へ向かう幕府の高官や他藩の重臣一行逆に長崎から上方へ向かう外国の使節などが嬉野市を通るたび、蓮池藩および塩田役所が接待をしなければなりません。そんな時は、忍びが情報を探るまたと無い好機です。

幕末期に至り異国船が度々長崎に現れるようになると嬉野塩田は人馬や物資の往来で混雑し、蓮池藩伊王島の守備を固めながら、外国船の情報を探るため密偵を派遣しました。このような事から、調べれば調べる程、嬉野市は皆さんが思っている以上に忍者が居た可能性が高いのです。

 

今回、戦国時代の史料や蓮池藩の史料について綿密に調査、遂にその情報を公開することとなりました。


九州忍者情報

九州の忍者の歴史を、三重大学の山田教授が解説しています。

最強の忍者の里 葉隠忍者説

最強の忍者説、佐賀の葉隠忍者説として放送されました。

この人に会いたい

うれしの温泉 忍者フェスタ開催までの経緯など。


嬉野忍者調査第一弾

サガテレビにて九州忍者保存協会が行っている嬉野忍者調査が放送されました。

嬉野忍者調査第二弾

サガテレビにて九州忍者調査の第二弾が放送されました。

嬉野忍者調査第三弾

サガテレビにて九州忍者調査の第三段が放送れまました。


第3回嬉野温泉忍者フェスタ告知

第3回うれしの温泉 忍者フェスタの告知動画です。(うれしのほっとステーション)

第3回嬉野温泉忍者フェスタ告知

第3回うれしの温泉 忍者フェスタの告知動画です。(エリアnavi)

第3回嬉野温泉忍者フェスタ告知

第3回うれしの温泉 忍者フェスタの告知動画です。(多久ケーブルメディア・松竹梅)