本光坊第十四世。戦国時代の八天狗衆(山伏衆)の頭領。軍配者。室町時代中期頃までは、周辺の有力国衆からの庇護で栄えた八天狗社だったが、有馬氏侵入の戦乱で社勢が衰えていた。天正四年藤津の横造城の戦いで、神殿に上ってくじ占いをし、龍造寺の勝利と読んで、郷士等を寝返りに導いた。その後、龍造寺隆信の陣に加わり働いたという。
「天正4年龍造寺隆信鹿島横澤城を攻む。良順父子神殿に登りて御鬮を拈す、即ち吉なり、玆に於いて隆信の陣に服属す、敵城忽ち陥落す」 『祐徳稲荷神社史乾』P.485
「天正四年龍造寺隆信鹿島横沢城を攻む。宮司良順良意父子亦其の陣に加わる。嬉野氏横沢の部将なりしが当社の御鬮を伺いて隆信に従う為に城忽ち陥つ。以来嬉野氏一門代々特に篤く本社を尊崇せり。」 『八天神社略記』
→★戦国時代の山伏は、危険な中を使者に出たり、諜報活動をしたり、占いを立てたりした。
元亀元年(一五七〇)六万とも言われる大軍で佐賀に攻めてきた大友軍の本陣を、龍造寺氏が奇襲で破った「今山の戦い」では、牛津の牛尾別当坊琳信ら山伏集団が鍋島直茂の奇襲隊を誘導し、深夜の山道を案内した上、戦闘にも参加している。良順もまた時代背景と共に諜報活動や、軍配者(戦について戦機や方角の吉凶を占う役)、軍事力としての山伏集団の統率や他地区の山伏との連携を担ったと考えられる。定義上の忍者とも言えるのではないか。
<マメ知識> 江戸時代後期、嬉野の八天社は「火事除けのご利益がある」として江戸で信仰が広まり、各大名家や幕府の役人などが「火伏の御札」を求め、また信濃国松代藩主・真田家は自領内や江戸藩邸へ分霊を勧請した。特に、寛政の改革で有名な老中・松平定信が非常に熱心な信者で、八天社信仰の全国拡大を後押しした事は全く知られていない。嬉野市発祥の文化が、日本史にも関わっている。(前掲『火伏と八天狗』に詳しい解説あり)
判定理由:忍者の定義には沿っているが山伏と忍者は似て非なるもの(認定はされず)
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